2012年10月17日
以前も書いたが、仏教には幸せという概念はないと思う。 近しいと思われるのは「苦」「楽」の概念で、この場合の苦とは四苦八苦、すなわち、生、老、病、死、怨憎会苦(おんぞうえく:嫌いなものと一緒にいなければならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく:求めるものが得られない苦しみ)、愛別離苦(あいべつりく:愛するものと別れる苦しみ)、五蘊盛苦(ごうんじょうく:心と体がコントロールできない苦しみ)であり、なんか要するに「生きてることって思い通りにならなーい」というのが苦なのである。
そう、この場合、苦とは思い通りにならないの意で使われているのだ。 そしてその苦がないのが楽なのだが、おもしろいことに楽とは思い通りになる、ということではない。
何でも思い通りになったら幸せなのかもしれないが、古代ペルシアの呪いに
「あなたの望みがなんでもすぐかないますように」
というのがあるのがなんとも意味深ではないか。なんでも思い通りになるというのは不幸なことなのである。
私も含めて人間とはおもしろい。
幸せなら幸せ。理想なら理想を自分の頭の中で、現実を無視して作り上げそしてそれに現実を沿わせようと努力する。たまにはうまくいく。だが現実とは、理想を無視して常に変わり続けるものなので、最後には理想のほうが破れるようになっている。
その時人は 裏切られた裏切られたと泣くか怒るかするものだが、それは現実が裏切ったのか、理想が無茶なものだったのか。 私は後者だと思うが、前者だと思う人は、今度は現実に裏切られないようにと理想を補強していく。
そして最後はパッチワークのようになった理想を抱いて時間切れで人生を終わる。その時彼らが握り締めているのは切れ端になった理想なのだろうか。理想を予定と言い換えてもいいかもしれない。
予定通りに運ぶ人生は幸せだ。
だが、それは見るべきものから目をそむけ続けることに成功しただけであって、現実から手にはいるものではない。
虚構の幸福を抱え、死という現実の前に人は何を思うのであろうか。
どうせいつかは死ぬのだから、死ぬまで逃げるのではなく、死ぬ前に現実に目覚め「本当に生きる」ことをしてみてはどうだろうと思うのだが。
本当に生きるとは、現実を生きるという意味だ。
これは強い。どう強いのかというと、理想などという余計な呪縛にとらわれていないから、今を生きるエネルギーにあふれている。
意味や根拠などという呪縛から解き放たれるのこそが私にとっては幸せなのかもしれない。もし幸せなどというものがあるならば、そしてそれはすでに手にいれている。
だから、幸せなどというものにあまり興味がないのかもしれない。あれはただの麻酔であり、一時の気休めである。
だが
そんな気休めや幻想にどっぷり浸るのも別に嫌いではない。むしろ大好きだ。
この間のミス〓の半額セールのお祭りとか、心の底から行きたかったんだぜ><
そう、この場合、苦とは思い通りにならないの意で使われているのだ。 そしてその苦がないのが楽なのだが、おもしろいことに楽とは思い通りになる、ということではない。
何でも思い通りになったら幸せなのかもしれないが、古代ペルシアの呪いに
「あなたの望みがなんでもすぐかないますように」
というのがあるのがなんとも意味深ではないか。なんでも思い通りになるというのは不幸なことなのである。
私も含めて人間とはおもしろい。
幸せなら幸せ。理想なら理想を自分の頭の中で、現実を無視して作り上げそしてそれに現実を沿わせようと努力する。たまにはうまくいく。だが現実とは、理想を無視して常に変わり続けるものなので、最後には理想のほうが破れるようになっている。
その時人は 裏切られた裏切られたと泣くか怒るかするものだが、それは現実が裏切ったのか、理想が無茶なものだったのか。 私は後者だと思うが、前者だと思う人は、今度は現実に裏切られないようにと理想を補強していく。
そして最後はパッチワークのようになった理想を抱いて時間切れで人生を終わる。その時彼らが握り締めているのは切れ端になった理想なのだろうか。理想を予定と言い換えてもいいかもしれない。
予定通りに運ぶ人生は幸せだ。
だが、それは見るべきものから目をそむけ続けることに成功しただけであって、現実から手にはいるものではない。
虚構の幸福を抱え、死という現実の前に人は何を思うのであろうか。
どうせいつかは死ぬのだから、死ぬまで逃げるのではなく、死ぬ前に現実に目覚め「本当に生きる」ことをしてみてはどうだろうと思うのだが。
本当に生きるとは、現実を生きるという意味だ。
これは強い。どう強いのかというと、理想などという余計な呪縛にとらわれていないから、今を生きるエネルギーにあふれている。
意味や根拠などという呪縛から解き放たれるのこそが私にとっては幸せなのかもしれない。もし幸せなどというものがあるならば、そしてそれはすでに手にいれている。
だから、幸せなどというものにあまり興味がないのかもしれない。あれはただの麻酔であり、一時の気休めである。
だが
そんな気休めや幻想にどっぷり浸るのも別に嫌いではない。むしろ大好きだ。
この間のミス〓の半額セールのお祭りとか、心の底から行きたかったんだぜ><
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この記事へのコメント
1. Posted by (*´ω`)さくら 2012年10月17日 23:08
桜です。で一番大事な事は私の徒党のたまちゃんが
いないので密教がだせないというわがままなことですw
ほかの事はまぅ大したことじゃないし、時間が解決することも多いでしょう
わたしが密教で楽しむためによろちくねw
また敵陣につっこもーじぇw
いないので密教がだせないというわがままなことですw
ほかの事はまぅ大したことじゃないし、時間が解決することも多いでしょう
わたしが密教で楽しむためによろちくねw
また敵陣につっこもーじぇw
2. Posted by 猫乃たまご 2012年10月18日 18:25
☆さくらちゃん
リアル仕事が全然片付かなくてほとんどインできないんだけど(2日に一度城下町に納入する間だけログインする感じ^^;)今日も朝6時50分に家を出てさっき帰宅したところだし^^;
また仕事が落ち着いたら遊んでください。
ほんとに色々ありがとう^^*
リアル仕事が全然片付かなくてほとんどインできないんだけど(2日に一度城下町に納入する間だけログインする感じ^^;)今日も朝6時50分に家を出てさっき帰宅したところだし^^;
また仕事が落ち着いたら遊んでください。
ほんとに色々ありがとう^^*
3. Posted by トーマ 2012年10月19日 23:04
良いですね。
最近人と合う機会があったのですが(フリーランスや個人で会社経営している人)、年齢に関係なく「今、その時を自分のやりたいように生きている」と話していてとても感じました。何というか体から出ている空気感がすごかったです。
反対に私の周りの会社勤めをしている人というのは、そういう人と比べると生きている感じがあまりしません。
会社の人としか会っていないとこんなこと気づかないかもしれないけど、ではそんな「今を生きている人」はどうやってそうなるに至ったのか、というのが今非常に興味があります。
ちなみにミスドの半額セール、客にとってはよくてもバイト店員には不満だったらしくてツイッターで不満ぶちまけたのが炎上してミスドがお詫びコメントだしてましたねw
最近人と合う機会があったのですが(フリーランスや個人で会社経営している人)、年齢に関係なく「今、その時を自分のやりたいように生きている」と話していてとても感じました。何というか体から出ている空気感がすごかったです。
反対に私の周りの会社勤めをしている人というのは、そういう人と比べると生きている感じがあまりしません。
会社の人としか会っていないとこんなこと気づかないかもしれないけど、ではそんな「今を生きている人」はどうやってそうなるに至ったのか、というのが今非常に興味があります。
ちなみにミスドの半額セール、客にとってはよくてもバイト店員には不満だったらしくてツイッターで不満ぶちまけたのが炎上してミスドがお詫びコメントだしてましたねw
4. Posted by 猫乃たまご 2012年10月20日 19:57
☆トーマさん
フリーランスや個人で仕事をされている方は、自分でスケジュールが決められるという意味で精神的に自由な面があるかもしれないですね。会社勤めだとなかなかそうはいきませんから^^;;
>「今を生きている人」はどうやってそうなるに至ったのか、
その方々がそうなのはかわからないのですが、キリスト教では「回心」浄土真宗では「廻心」というものがあります。読み方はどちらも「えしん」です。
これは文字通り心が回るもので、もっとぶっちゃけると精神的に一度完全に死ぬってくらいに既存の価値観を一度全部捨ててしまうものです。
生きているうちに心のお葬式をしてしまうのですね。
ゲームに必死になっていても電源を落としたら無関係になってしまうということを人生で味わってしまうので結構ハードな気分になりますが、一度これを知ってしまうと、後は毎日やらないといけないあれやこれやがそこまで深刻にならなくてもいいということがはっきりわかって、軽やかな気分になるのも事実です。
ただ
「私が今まで一生懸命やっていたのは何だったのかしら」
と、大変空しい気持ちにもなるのでアレですが……。まあその空しさが大きいほど後の人生が軽やかなものになると思えばいいのですけどね^^
>ミスド
ツイッター祭を知っていたので、なおさらいってみたかったです…w
フリーランスや個人で仕事をされている方は、自分でスケジュールが決められるという意味で精神的に自由な面があるかもしれないですね。会社勤めだとなかなかそうはいきませんから^^;;
>「今を生きている人」はどうやってそうなるに至ったのか、
その方々がそうなのはかわからないのですが、キリスト教では「回心」浄土真宗では「廻心」というものがあります。読み方はどちらも「えしん」です。
これは文字通り心が回るもので、もっとぶっちゃけると精神的に一度完全に死ぬってくらいに既存の価値観を一度全部捨ててしまうものです。
生きているうちに心のお葬式をしてしまうのですね。
ゲームに必死になっていても電源を落としたら無関係になってしまうということを人生で味わってしまうので結構ハードな気分になりますが、一度これを知ってしまうと、後は毎日やらないといけないあれやこれやがそこまで深刻にならなくてもいいということがはっきりわかって、軽やかな気分になるのも事実です。
ただ
「私が今まで一生懸命やっていたのは何だったのかしら」
と、大変空しい気持ちにもなるのでアレですが……。まあその空しさが大きいほど後の人生が軽やかなものになると思えばいいのですけどね^^
>ミスド
ツイッター祭を知っていたので、なおさらいってみたかったです…w