2011年07月27日

 中学校一年生の時、音楽のM野先生がこう言ったのを今でもとてもよく覚えている。
「よく『子どもは純真ですばらしい』という人がいますが、私は『子どもがすばらしい』とも『純真がいい』とも思えません」
 当時も納得したのだけれども、いわゆるオトナになってからこの言葉は一秒ごとに重みを増して感じられる。

 最近中学時代の友だちから電話で誘ってもらってfacebookに参入した。そこでは、当時の同窓会のような集いがもたれている。

 私は今生まれ育った土地とは程遠いところで生活している。そしてそこを離れてあまりに長い時間が経過した為、ともすると、自分の子ども時代というのはフィクションだったのではないかという感覚に捕らわれることがある。だから、中高生時代の学友たちが未だ存命で、毎日生活しているという軌跡を見ることができるというのは、一種眩暈がするように新鮮な感覚だった。 要約すれば「やっぱり私は(自分の思い込みではなく)名古屋の学校に通っていたのか」な感覚だ。
 それは忘れていたあれこれの感覚を一気に呼び覚ます不思議なものだった。いいこともあったし思い出したくないようなことも沢山あった時代が今、タイムカプセルを開いたように目の前にやってきたのだ。だけど、あの時代に先生がおっしゃった一言一言をたまに思い出す。
 勉強という概念が外部とは全然違う空間で「受験勉強がしたかったら塾でやってくださいね」というような学校だった。
 楽しくもむずがゆい程に色々あった時代。あれは本当にあったんだなあ。。

 あの頃の友だちは知っている。私が人の好き嫌いが非常に激しくマイペースな性格(でありながらそこまで脱線はできない人間)だということを。

 だけど、月日が流れ、私も大人になった。そして大人になるにつれ、自分が背負うものが増えた。今は事に仕えているため「こいつ苦手だ」と思う人と対面したとしてもオクビにも出さないで接するということが得意になってしまった。

 大人は嘘つきなのだ。そして、嘘つきでないと困るのだ。

 大人が嘘つきなのは、そこに守りたいルールや世界があるからだ。人によっては家庭だったり、仕事だったり、地域社会だったり、色々だと思うけれど。我を通すしか能がない子どもばかりだったら、どれもこれも円滑に進まないものばかりだ。

 だから、大人は疲れてしまうのだ。そんな大人になるのは損だから嫌だという気持ちが「子どもっていいなあ」だったりするのだろうが、それだって「子ども幻想」というものだろう。体が小さくても、地域社会の一員としてがんばって社会幻想を担う子どもだっている。体が大きくても「自分に嘘はつきたくない」と言って幻想を担うのを拒否する人間だっている。

 子どもは生まれた時から周りの大人を見てそれを真似して生長する。そしてそこに足りないものをなんとか補おうと大人を演じる子どもだって当然いるのだ。

 純真な子ども時代を送れた人はその環境に感謝すればいいと思う。そうでなかった人は心に空いた「幸福な子ども時代」という幻想を追い求めるのだろうか。

 「大人は汚い」というメジャー言葉があるが、私は小学生の頃から、その言葉に疑問を感じていた。「大人は汚い」それは事実なのだが、同時に「子どもも汚い」のである。人間に天使のような心がある時代など存在しない。何故なら、生まれた瞬間から、人間とは汚い大人の真似をして大人になっていくのだから。時にはその純真さ故に道徳的に眉をひそめたくなるようなことも平気でやってしまうのも子どもである。

 純真な子どもを育てたいと思うならば、注意深くそれ以外の行動を子どもがしないように大人が優しく嘘をつき続けなければいけないだろう。

 結局「子どもの純真さ」など、疲れてしまった大人が抱く幻想なのだ。

 いい心、悪い心と選択するのは人間の分別の心だ。そしてそれは教育によって培うものだとすれば、やはりそれは「どの嘘を選択するか」でしかない。

 道徳的な大人たる嘘をつける人でありたい。 と、思い続ける私 という幻想で嘘をつく私なのだ。

 本心は自分さえよければどうでもいい。だけど、それじゃいけないという幻想があるから、私は嘘をつき、たまに煮詰って挫折し、嘘にかえる。





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