2010年03月12日

 みんなー!たまごの妄想教室はっじまるよー! あたいみたいな天才目指してがんばってねー><b (チルノのパーフェクト算数教室風)

 ばーかばーか とチルノが連呼されるのが大人気なあれでございます…。


 さて、そろそろお彼岸ですね。実はこのお彼岸でいよいよ私も法話デビュー!

…するはずだったのですが、いろいろあって実現はしませんでした(ノ∇`)タハー

 まあでも、せっかくの機会だから原稿だけでも書いてみよう→せっかく書いたからアップしてみよう。

 ということで「続きを読む」のところにアップしてみました。 1時間話す分の原稿ですので超絶長いですが、まあ、興味のある方だけ読んでやってください。

 眠れない夜の友になること必須です…。

 

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心すなはちこれ長生不死(ちょうせいふし)の神方(しんぽう)、欣浄厭穢(ごんじょうえんね)の妙術、選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)、利他深広(りたじんこう)の信楽(しんぎょう)、金剛不壊(こんごうふえ)の真心(しんしん)、易住無人(いおうむにん)の浄信(じょうしん)、心光摂護(しんこうしょうご)の一心、希有最勝(けうさいしょう)の大信、世間難信の捷径(せっけい)、証大涅槃の真因、極楽円融(ごくらくえんにゅう)の白道(びゃくどう)、真如一実(しんにょいちじつ)の信海(しんかい)なり。

 

 顕浄土真実信文類三  【一】 より

 

 

 こんにちは。本日はみなさまようこそのおまいりでございます。今回、たまにはお話ししてみてはとご院家さんがおっしゃってくださったので、この場でお話させていただく機会を頂きました。どうぞよろしくお願いします。

 

 さて、昨日からお彼岸法要が行われておりまして、本日は2日目でございます。お彼岸といえば日本オリジナルのものでありまして、806年元年にはじめて行われたのだそうです。

 春分・秋分の日は太陽が真東から昇り、真西に沈むということで、沈む夕日の方角を見て西方極楽浄土を思うというところからきているのだといわれていますが、その夕日を見て極楽浄土を思い浮かべるものが浄土三部経のひとつ、観無量寿経の中に「日想(にっそう)」という方法として出てまいります。

 

 「生まれながら目が見えないのでない限り、目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観をはじめるにあたっては、まず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日を想い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もうとして、西の空に太鼓が浮かんでいるようになっているのを見るがよい。それを見終わった後、目を閉じても開いてもその夕日のすがたがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名づける」

 

 と、観無量寿経の現代語訳にあります。この後極楽浄土や無量寿仏、観世音・大勢至菩薩を思い浮かべ、さらには極楽に往生する想いを起こし生まれる方法が全部で13も出て参りますが、これでおしまいではなく、その後に機の話が出てきます。

 

 「機」(板書)とは、中国仏教で「人」のことをさします。もともとは投石機のように、しかけに触れると石が飛んでいくというようなものだったそうですが、このスイッチに触れると作動するというところに人間があらわれているということではないかと思います。

 

 普段はそこにあるだけで静かなものなんですが、ひとたびスイッチが入ると大きな石が飛んでいき、城壁を破壊する。どんなもの静かな人でも縁に触れれば思わぬ一面を見せるというところで非常によくできた表現だと思います。

 

 で、この「機」ですが、これは人間をあらわしたものです。ですが、この「機」を人間一般として客観的に見るのではなく、この自分、この私のこととして頂くことができましたら、それは仏教的な見方ができるようになったのではないかと味わいます。

 

 さて、観経に話は戻りますが、この中にこうこうこうすれば極楽浄土や無量寿仏、観世音・大勢至菩薩を思い浮かべ、さまざまな罪が取り除かれて、そこに往生したいと思いを起こし、実際に生まれることができるという13の方法の後に、機の話に展開していくのであります。

 

 上生(じょうしょう)に3種類の品(ぼん) すなわち 上生上品(じょうしょうじょうぼん)上生中品(じょうしょうちゅうぼん)上生下品(じょうしょうげぼん)

 中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)に同じように3種類、全部で9種類。その9種類が極楽世界に往生するものだと説かれています。そして、上生の3品が往生する想を第14観、中生のものが第15観、下生のものが16観と名づけられています。

 

 さて、この中でもこの私に一番相応するのが下生下品(げぼんげしょう)でありましょう。下生中品までの8種は命を終えようとするその時までにいろいろな形はありますが、仏を念じることができるのでありますが、下生下品のものはそれができません。臨終の苦しみに責めさいなまれて教えられたとおり仏を念ずることができないのです。そこでさらに

「もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい」

 と勧められて心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると一声称える度に長い長い間の迷いのもとである罪が除かれいよいよ命が終わる時に極楽浄土の蓮の花の中に生まれることができるとあります。

 

 私は縁あって浄土真宗のみ教えに出会った時、なぜ称名念仏をするのかが非常に不思議でした。なんで「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われるのかというのがとても腑に落ちないというか。そういう感じでしたので、お経の中に書かれている「南無阿弥陀仏」というところ以外で

「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とお念仏申すということがどうしてもできませんでした。

 

 みなさまはどうですか? 今ここで

「さあ、お念仏してみましょう」

 と言われて何の抵抗もなく口からするっと

「南無阿弥陀仏」

 と出ていらっしゃるでしょうか。どうでしょうか。私はずっと出てこなかったです。

 

 お念仏を称えれば救われると聞かせていただいても、そもそもそのお念仏が何なのか。救われると言われてもその救いが何なのかわからなくて、そして正体がわからないことをただやれといわれてもできないのですね。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているという下生下品の人も臨終の時には善知識(ぜんぢしき)の勧めに応えて南無阿弥陀仏と10回口に称えると言うのですが、その最初の一回がどうしても出てこないのです。

 

 そもそも救われたいという気持ちがあるのかと言えば、救いというものの内容がどうも漠然としてよくわからないですね。別に救ってくれなくても今のままで十分いいという気持ちもあります。おかげさまで食べるのにも困らないですし、上を見ればキリがないですが、本当に今現在、おおよそ満たされている状態だと言い切って差し支えないから、別にこのままでいいんじゃないか。わざわざ救ってもらう程のものでもない…と、人間社会のものさしで考えて納得してしまう。時々、何かこのまま人生が終わってしまっていいんだろうか。何か空しい。と思うことがあっても、人生の先輩がみなさん口にされているように

「そういうものだ」

 と自分をなぐさめて、そして一日がたっていく。そして一日一日と日を重ねてそうやって死んでいくものだと、これが「人生悟った状態なんだ」と思っていました。

 

 そんな生活の中では別に「極楽に往生したい」という想いはおこらないのですね。だから念仏する気持ちにもならないわけです。考えてみればごくごく当然のことです。

 

 どこか遠い世界から阿弥陀仏がいらっしゃって、おせっかいにも私を救うとおっしゃられている。私はただ

「はい」

 と頭を下げさえすれば救いの船に乗せていただける。

 

 そんな話をイメージして、そしてなんか頼りないなあ。別にそんなものに頼るほど不自由していないし…という気持ちになるのですね。

 

 ただ、そのような日暮しをしている中で、たまに何かとても動揺することがおこったりするとふと

「これでいいのだろうか」

「お前はそれで本当にいいのか」

 という問いが頭をもたげげくるのです。

 

 普段平和に暮らしている時には上手に封印していたその問いが、例えば観無量寿経にある、かわいがっていた息子に敵と断定され殺されるところだったイダイケ夫人のような事件があって、ずっと平和に続くとあてにしていたことがひっくり返されるようなことが起こる。すると激しい動揺とともに

「お前は本当にこれでいいのか。」

 という問いが足元にばっくり口を開けて迫ってくる。逃げようと後ろを見ると後ろにもいる。右を向いても左を向いても、気がついたら足元にあると思っていた立っている場所そのものが消えている。そんな恐ろしさでもってそこに存在している。 今まで上手に消し去っていた。蓋をしていたと思っていたのが錯覚だった。蓋をしていたつもりだったけど、蓋そのものが消え去るものだったというわけです。 これは本当にもう恐ろしい体験です。立場がないどころの騒ぎではありません。

 

 そうなるともう、うずくまるしかありません。布団をかぶって寝込むというあれです。しかしながら、それは解決ではなく先延ばしでしかないと知ってしまうともう元の状態にも戻れないというなんとも情けない気持ちでいるしかないわけです。。

 

 人によってはその時

「われを頼め。必ず助ける」

 という声が聞こえてお念仏を思わず申した という話もききますが、それもなんか都合がいい仏さまだなーと。嘘くさいなー。とか思ってしまってどうも本当じゃないような気がしますね。自分で作ったものなんじゃないかな。そしたらまた消えてしまうから意味がないよね。とかですね。

 そこで、じゃあ何が本物なのだろうかという話ですね。 何が本物なのか。何が本当に消えないのか。 本当のものに出会いたい。観無量寿経とはその本物に出会いたいというイダイケ夫人の求めに応じて説かれたものです。

 

 ところが、本当のもの…如来に会いたいと思っても会えないのです。念仏申せばお会いできるかと思って念仏してもあえない。じゃあ念仏が足りないのか。もっと称えればいいのかといえばそれでもダメ。以前のように

「別にどうでもいい」

 とか思っているわけでもなく、心からほとけさまに会いたいと思って求めているのにどうしても会えない。どうすればいいのかという気持ちになって、やっぱり仏さまも作り話だったのかなーなどと自分で納得して終わりにしてしまおうとする。

 

 そしてまた振り出しに戻るわけです。念仏なんてたいしたことないや…神も仏もないな…と。

 そこにはやはり、念仏の後ろに阿弥陀仏がいらっしゃるというイメージの中で求めているという私の姿があります。自分のイメージの中に阿弥陀仏を押し込めようとして、それができなかったからと投げてしまうそんな姿です。

 あくまでも、主役は私で阿弥陀仏は遠いところからなんか神通力のようなもので私をサポートしてくれる…そんな阿弥陀仏を求めているのですね。親鸞聖人はそんな仏を化仏(板書)と言われています。

 

 ではどうしたら真仏(板書)本当の如来に出会えるのか。それは他力の正行と自力の雑行をはっきりと聞き開き、一向一心になって念仏を申すこと…すなわち念仏の身になることだとご文章の中で蓮如上人はおっしゃられています。

 

 一向一心に念仏申さんと思う心のおこるとき、如来がこの私にあらわれてくださる。私の召喚に応じてあらわれてくださるのではなく、生きた如来がこの私にあらわれてくださるのです。親鸞聖人は生きた如来、この私を救う具体的な形は南無阿弥陀仏であると説かれています。阿弥陀さまに会う方法とは念仏の身になるということです。生きた如来がこの私にあらわれてくださる。自分が頼りにしていたものが何もかも崩れ落ちていく中で

「これでいいのか」

 という問いから逃げ回ることもできなくなってうずくまっていた私に光があたるのですね。本物の光に照らされてそこではじめて気がつくのです。 自分が思い込みの中で作り上げ本物にしていた事柄が、実はまがい物だったということがはっきりとわかる。

 

 わかってしまえば

「なあんだ」

 ですむようなことです。壊れる性質にあるものが壊れただけのことですから、別に動揺することではないということが照らされて明らかになるのです。 照らされなかったら壊れる性質のものを

「壊れないものだ」と決めつけ続け、どうやったら壊れないか試行錯誤しながらだましていくしかなかったものが、「もともと壊れる性質だった」とわかった。わかったらもう、それを握り締めたりはしないですね。

 おもちゃの宝石を両手いっぱい握り締めていてもなんにもなりません。それに価値がないとはっきりわかれば、両手に握っているものをまだ大事に確保しておこうとは思いません。

 

 本当のものに自分の心の闇を照らされると、なんだかぱあっと明るくなってうずくまっていた状態から体を起こしたくなります。躍り上がるような喜びを感じる人もいるかもしれません。安堵のあまり体中の力が抜けてしまう人もいるかもしれません。しかしいずれにしろそれはとても力強くこの私の体を起こすものなのです。

 

 南無阿弥陀仏。ここに具体的な救いの光があります。働きそのものが南無阿弥陀仏です。どうしてそうなのかはわかりません。私の理解の範囲を超えています。しかしながらこの身に南無阿弥陀仏があらわれ働きかけ、私を本当に生かしてくださっているという事実があります。

 

 自分が理解でき、説明できる世界を作り上げ、その中で生きている時、わたしたちはその世界を守ろうとかばったり、証明しようとがんばったり、他の世界観に打ち勝とうとしたりと、とにかく必死です。必死に生きている中で

「それは壊れるものなんだ」

 と教えてくださるお念仏とは何より避けたいものであります。だから遠ざけたい。できたら消えてほしい。 しかしながら現実が迫ってくるとそうも言っていられないので、自分の世界を壊さない程度におつきあいしたい。

 これが私たちの本音ですね。今まで生きてきた中で自分なりに考えて作り上げた世界観を何よりも誰よりも信じているのです。しかしながらそれに根拠はない。妄信です。この際はっきり申し上げますが、それは必ず壊れます。せいぜいもって臨終の寸前くらいまでです。にせものです。

 

 私たちは生まれてからずっとどうやって生きていくのか、どうやったらいいのかというのを周りの人たちを見ながら、それを真似て生きていきます。その中で、やはり主流なのは、自らのまわりをがっちりと思想なり物資なりで固め守るという生き方でありましょう。誰にも負けないというのは気がついたら独りきりという生き方でもあります。

 そしてそんな方法しか知らず、崩れてはまたかき集め、かき集めて固めては崩れの繰り返しの中で気がついたら人生の時間がタイムリミットを向かえ

「こんなはずじゃなかった。本当に生きたことがなかった」

 と死んでいく。

 

 どうせ死ぬ時には何もかも捨てていかなければいけません。 それならば生きているうちに自分が頼りにしていたものを全部捨て、そして本当のもの─消えないし自分の元から去っていかないそういうものに出会う。それが念仏の身になるということです。

 

 別に誰かに勝たなくても壊れない。証明できなくてもなくならない。説明しきれなくてもそこにある。

仏の智慧の光 具体的には智慧の言葉、南無阿弥陀仏は、自分が今までがんばって守っていた世界が、立っていた場所が本当のものではなかったことを知らしめ、それがもはや守り握り締めるものではないということに気がつかせてくださるのです。

 

 生きているうちに一度精神的に死んでそして本物に出会う。一度本当のことが知れれば、嘘が崩れても一瞬動揺してもすぐに

「ああ そういえば嘘だった」

 となることができる。ある意味これは不死身の状態ですね。そこには、

「もしかしたら嘘かもしれない」

 という気持ちも

「もしかしたら本当なのかもしれない。きっと本当に違いない」

 という自分の「かもしれない」という疑いは入り込む隙がありません。嘘は嘘であり、嘘でないことが本当のことです。

 疑いなく信じるとは、根拠のない自分の想像で嘘や本当だと信じ込むことではありません。それは妄信というものです。壊れるものは壊れるし、偽は偽だとはっきり知らされ念仏の身とならせていただく。これが信心です。

 

 親鸞聖人は冒頭にご紹介したご賛題の中で

 

  大信心はすなはち長生不死(ちょうせいふし)の神方─生死(しょうじ)を超えた命を得る不思議な法、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心、他力より与えられる深く広い信心、ダイヤのように堅く壊れない真実の心であり… と表現されていらっしゃいます。

 

 お寺は死んでからお世話になるところだから年をとってからお参りさせて頂くものだと私はずっと思っていました。お念仏は死にそうになって

「もうこうなったら念仏しかない」

 という時に称えるものだと思っていました。それはそういう考えもあるかな…と思いますが、今自分は生きているのにすこし寂しいというか力ないことですね。

 

 死んでからではなく、ぜひとも生きているうちに心のお葬式を済ませてしまい、南無阿弥陀仏の不思議に出会っていく。そんな人の輪が広がり生きた念仏がほれぼれと響く。そういうことが増えたらそれはとても力強いことなのではないかと思います。

 本日のお話はこれで終わらせていただきます。

 

 

 肝要はご文章の拝読です。

 

 

 古歌にいはく、

   うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行(ぞうぎょう)・正行(しょうぎょう)の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑(しょうぞう)の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定(けつじょう)のうへに仏恩報尽(ぶっとんほうじん)のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 御文章 一帖(一) より

 



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この記事へのコメント

1. Posted by 王院   2010年03月12日 23:39
おひさ~、現実もバーチャルも頑張ってる?みたいだねぇ
オレも会社の教育係をしてるから思うけど
「今日は、刑法と民法の下調べ&資料作成もバッチリしたし、上手く話しちゃるど~」
ってすると、会議だの営業先からの呼び出しだのでお流れになる事が・・・・
新入社員の教育が終わって落着いて、名前が王院を使えたらプチ復帰も考えるかなぁ

その時はガッチリPLしてねw
2. Posted by 猫乃たまご   2010年03月13日 14:20
☆王院さん

 おー棟梁おひさしぶりです! バーチャルはぼちぼちですよ^^;
 以前のように耐久マラソンな仕様じゃなくなったので信onも楽になったおかげでだらっと居座っている感じです^^

>刑法と民法の下調べ&資料作成もバッチリしたし

 うはあ@@ なんか重要で大変な役回りをされているんですね@@ 気を遣われるポジションですが、どうぞがんばり過ぎないでくださ@@

 復帰されるのを楽しみにしていますよ^^ 最近では、無印の頃無法をしていた頃にはみんな50代でイザナミくらいいっちゃう感じなので私がPLしてもらうことになるかも>∇<
 期待しています^^*

3. Posted by 歩ぼーず   2010年03月14日 15:51
 たまごさん。ご法話の原稿読ませていただきました。たまごさんの真情がそのまま仏徳讃嘆となって、「ああ、阿弥陀様がここにいらっしゃる。」と感じました。ひとりの念仏者としての真摯さを感じました。わたしなど、ともすれば日々の雑事に追われ、自分を見失いがちになりますが、それに終始することなく、本願力に出遇うことの大切さを思いました。
 そしてまわりを見れば、世の中には望みが叶って、いわゆる「成功」した人もいれば、生きる望みを失って自殺してしまう人もいます。また、「ただ生きてるだけ。」とおっしゃる方もいます。
 たとえ「神も仏もない。」としか思えないような状況でも、阿弥陀様の光は、すべての人に平等に降り注がれています。そういう方達に、阿弥陀様のお取り次ぎをまかせていただけるようなご縁があれば、どんなことであれ、精いっぱい務めさせていただきたいと思いました。
4. Posted by 猫乃たまご   2010年03月15日 08:17
☆歩ぼーずさん

 歩ぼーずさん、長い法話原稿を読んでくださいましてありがとうございます^^
 
>阿弥陀様の光は、すべての人に平等に降り注がれています。

 そうですね。ただ、私たちが
「そんな光いらない」
 といって大きな日傘に隠れているだけなんですよね。

>どんなことであれ、精いっぱい務めさせていただきたいと思いました。

 一緒に精一杯歩ませて頂きます。

 ご法話って、自分が構成するのですが、気がついたら結局自分の為の話だった…ということばかりなんですが、そういう意味ではお取次ぎさせて頂くご縁って、一番お得だなーっていう気がしました^^

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