2008年03月12日

 最近は三国志オンラインのぬるま湯にどっぷり浸かっておりまして、ブログ更新が止まっています。

 まあ、なんというか、適当にできるという意味ですごく楽で、ストレスが溜まらない大変いいゲームだと思います。

 で、その中でリアルのストレスがほわ?っと緩和されて、自分の中で何かが補完されて丸い状態になった時、私の筆は止まるのです。

 便りのないのはよい便りとは言いますが、そんな感じで、すごく今は安定しています。

 思えば、今まで何かを書くときは、信onの中でお題を頂いて書くことが多かったけど、三国志ではそこまで誰かと話し込むことはないかな?。

 というわけでリアルで頂いたお題についてレポートを。

「自死(自殺のこと)した方のお通夜の席で何を話すか」

…。

…。

…(??;;;;;;;;

 話せるかああああっ!!!! 


Σ(?Д? ハッ!

 何か書いて提出しなければ、単位を落としてしまうっ!! というか別に落としてもいいかって思ったりするけど、やっぱすげー駄目じゃん。。。。

 時に現実は残酷です。。。

 まあ そんなわけでなんか書いてみるかな;;;


 どのような死を迎えたかということはさておき、お通夜というのは、亡くなってすぐのことですし、なんというか遺族の方の悲しみは底知れないものがあるわけです。

 私などは涙もろい性格なので、お通夜の席では必ずもらい泣きしてしまいます;; 遺族の方の悲しい気持ちが流れ込んでくるんですよ;;

 病気でも、事故でも、寿命(?)でも、自死でも、やっぱりどうしても「これでよかった」という想いにはなかなかなれないのが死というものです。それが自分に近しい人であればあるほどその想いは強くなるのではないでしょうか。

 死というものは、生まれてきた時から定められたものであるにも関わらず、私たちはそのことについてあまり考えたくない為、正面から向き合うことはほとんどありません。大切な人の突然の死によって、泣く泣く向き合わされることばかりです。

 何故なら、死んでしまったらそこでその人との世間的な関わりは終わってしまうように見えるからです。

 一緒に食事をとることはできません。昨日喧嘩したことに「ごめんね」って言うこともできません。そんなことはあんまり考えたくありません。今日死ぬかもしれないけど、死なないかもしれない。そうやって毎日先延ばししているうちについに死が私たちを捉える。そんな風に私は見えます。

 私達は現実を生きています。現実の中に世間というものがあって、その中で生きています。生きていかざるをえません。世間はこの私を始めとする「生きている人」の都合でできたルールに沿って動いていますから、この私が望まない「死んだらどうする」ということはなんとなく触れないようにして日暮をするというのが暗黙の了解になっています。

 だから、現実が追いついてついに死に捕らえられた時に思うのです。
「なぜ」「どうして」「私は(あなたは)死んでしまうのか」

 その中で気が付かないうちに「病」「老」「死」は避けるだけ避けたいものとなり、避けられるようになり、ついに嫌われるという道をたどっていったような気がします。

 何故死んだのか。と言えば、私たちが生まれてきたからです。病気や事故というのは死の縁であって原因ではありません。医者が悪い、あの車が悪い、あの人をここまで追い詰めた私が悪い、あの人が悪い。。 人は責任を誰かに押し付けてその苦しみを逃れようとしますが、しかしながらそれは その責任が他人にいこうと自分にこようと、本質的には変わりません。そのような責任のループはただ人を押しつぶすだけです。

 現実というものがあって、私たちは生まれてからずっとそれに対抗してなんとかするという方法を学んできました。

 私たちはずっと、意に沿わない現実がある場合、どうすればいいのか、どうすれば現実を自分の意に沿わせることができるのか ということでずっとやってきました。

 そしてそれが何となく上手くいっているような気になっているために、死につかまった時に「なぜ」という言葉が出てきて「ダレのせいなの」という責任を求めることになってしまうのかもしれません。

 現実に対抗するのではなく、現実に沿う。現実に含まれてこの私が生きている。

 ご家族が自死されるというのは本当につらい、つらい出来事です。考えるなと言われても
「何故こんなことになってしまったのか」
「あの時もっとこうしていれば避けれたのではないか」
 という言葉が頭を交差しないことはないでしょう。実際にその出来事が自分の中に軟着陸するまで長い時間を必要とすると思います。私はただ、そのお気持ちを深くお察しするのみで、わかることはできないものだと感じます。

 死していかれた方に対して何ができるのかということを考えますと、ただその死を痛むということ以上のことは誰にもできないのであり、そして、そのことが一番難しく大切なことではないかとも感じる次第です。

 先に申し上げました通り、世間を生きている私たちはつい現実を責め、世間を責め、そして誰かを責め、自分を責めて、その方を急に失った痛みを忘れようとする性質があるのですから。

 今はただ、その方がなくなられたということに関して、その事実をじっと受け止め死を痛む。

 それが私にできる精一杯です。

 お話を終わらせていただきます。


 …

 これでいいかなあ…。

 いいことにしちゃおう。

 うん…。


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この記事へのコメント

1. Posted by Andrei   2008年03月13日 01:31
自殺のことを自死って言おうぜ、ってのあるんですか?
自殺はネガティブだけど自死はそうじゃない?
2. Posted by 猫乃たまご   2008年03月14日 17:59
☆アンドレさん
 お久しぶりです。その後、間抜けな私が普通郵便で出した例のアレは無事届いたのでしょうか;; アンドレさんのことだからきっとメールをくださったのだとは思うのですが、スパムメールにまぎれて一緒に削除してしまったようで、ほんとすいません;;
 郵便事故に縁がある私なので、もし届いていないのでしたら、今度は簡易書留でお送りしますね><。
 というわけで
>自殺のことを自死って言おうぜ、ってのあるんですか?
 これについては連れ合いにも尋ねてみたのですが、最近こういう流れがあるようですが、どこが始まりなのかははっきりしないようです。
 自殺というと自ら頂いた命を絶つという意味になるので、自分のいのちも自分のものではないというので私はいいと思うのですが。
 なんでも言葉を変えればいいというものでもないのでしょうが、何かきっとあったのだと思います。
 またくわしい事情がわかったらお知らせしますね。
3. Posted by くらら   2008年03月15日 13:18
たまごさん、こんにちわ?
また難しい問題だねぇ、、、
ちょっと考えてみます。
私は、命というものは時間と引き換えに燃焼する火であって、燃え尽きる=死ではないかと捉えています。
でも、それは尽きる時まで勝手に燃え続けるものでもなく、心に熱を持ち続けなくては、温度が冷えて火が消えてしまう。
自死というのは、後者の方。
人が生きていくには、何らかの形で生命を維持する意志を保つ(強める)行動や工夫が必要なんじゃないかなと思います。
私の場合は、親しい人との会話と共感かな?仕事は当てにならないので。ネットゲーがあってよかった!
まぁ、結局、ご家族を亡くされた方には、私などが何も言えないのですが、、、orz
4. Posted by 猫乃たまご   2008年03月17日 23:27
☆くららさん
 難しい問題に応えてくださってありがとうございます。
>私は、命というものは時間と引き換えに燃焼する火であって
 うんうんー。大乗仏教では時間もいのちと考えるので、無駄話で他人の時間をつぶさせるのも殺生のひとつなんだそうですがそのことを思い出してしまいました。
 いのちというのは不思議ですね。生きていたくても死なないといけない人もいれば、死にたいのに生きていかなければいけない人もいる。自殺する人もどうなんでしょうか。もしかしたらもっと生きたかったのかもしれません。
 いのちを思い通りにする=自殺 というイメージも一般にはあるのかもしれませんが、やはり思い通りにならないものです。
>人が生きていくには、何らかの形で生命を維持する意志を保つ(強める)行動や工夫が必要なんじゃないかなと思います。
 そうですね。与えられた環境の中で何不自由ない暮らしをしている人ほどもしかしたら熱がぼやーっとしてしまうのかもしれません。
 くららさんのこのお話、私なりにもっと深めてみます>w<

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