2007年11月26日

 自分が自分でないような不安をふと感じたことのない人はいったいどれほどいるのだろうか。

 私にとってはかなり重要なこの問題は、一時期蓋をして押さえ込むことに成功したこともあるけれど、結局その根本にたどり着かなければ対峙できない類のものだった。

 人間は青年期と老年期に問いを持つものらしい。仕事が忙しく、歯車がかみ合っている時にはその問いはふさがれてしまう。

 ガンガンいってるときには気づかないことがあるんだ

 と言った人がいたそうだけれども、本当にそうなのかもしれない。何もかも回りまわっている時、ふと立ち止まる余裕もないときには、その問いは
「そんなこと考えたって仕方ないでしょ」
 の一言に飛ばされてしまう。
「そうじゃないと回っていかないでしょ」
 確かにその通りなのだ。

 だけど逆に考えてみると、そうしてまわしていったとして、それは自分が死ねば終わりなのではないだろうか。いや、終わりである。

 喰う喰えないの問題は死ねば終わる。死ねば終わるのである。そして私達は今食べなければ死ぬといいながら、食べていてもいつかは死ぬ存在なのである。

 現実を見ろ!
 
 と言う場合、それが本当に現実なのか、自分が解釈した現実なのかを味わってほしい。

 現実と理想が離れていると感じるとき、その現実とは何か。理想とは何かをよくよく見ることができれば、そこには自らの解釈…色眼鏡としての自我を見るしかないのではないか。

 現実から目を背け、解釈された世間を渡る為に必死にならなくてはならない縁も確かにある。だけどそれはやがてその解釈そのものをひっぺがされる時に恐ろしい苦しみとなるような気がしてならない。

 世間を渡る知恵はやがて破れる。

 どこかそれが夢であっていつか破れるものなのだと知っているだけで、世界はまるで違うものになる。

 …んじゃないかなあ…。

 私は私の人生しか生きることができないし、それをどれだけ極められるかだけだから、他人さまのことはよくわからないけれど、そうじゃないかとなんとなく感じる。

 問いが止まる時は恐ろしい。だが止まった人はその恐ろしさに気づかず静止した中に安住を感じそこから出てこようとしない。

 あたかも嵐の夜、吹き飛ばされそうな家の中の灯りに安らぎを覚えるがごとく。

 夜の闇の中では、どのようなボロ家でも灯りで美しく見える。だがそれは夜明けとともに日の光の前に色あせてしまう灯りであり、日が差せばボロが目の当たりにされるだけだろう。

 曇天の日の下で雲の上にある太陽を感じながら、我がボロ家をとりつくろうことの愚かしさを今こそ正視したい。

 信onでは昨晩ウナイベ(ウナギ隊イベント)に参加しました。いったい私はいくつのギルドに所属しているのでしょう^^; 自分でもわかりません。。。

 屋敷を使ったウルトラクイズみたいな○×クイズで、不正解の人には、なんと!ウナギ隊長お手製の手投げ爆弾(要するに手榴弾!)がぶつけられてきます>< これは相手をタゲって使用するアイテムで、受け取り側の意志に関係なく
「受け取った」
 になってしまう恐ろしいアイテムです!! でも、爆発しないことのほうが多いのですが…。爆発してしまった人、その爆風に巻き込まれた人が脱落という形式で、最後まで生き残りましたヽ(*´∇`)ノ 油断した頃に爆発するからオソロシイヨ!!

 で、最後の記念撮影のときに全員で手榴弾で爆発!! 

 いやー屋敷遊びは奥深いですね(´▽`A

 ウナギ隊のみなさまおつかれさまでしたーヽ(*´∇`)ノ


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